いつも鋭い視点で切り、説得力のある田中さんの解説は、魅力があります。
■ 田中良紹 さんの「国会探検」政治ブログから、選挙についてのコメントを紹介します。
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/08/post_203.html
私もよく理解できていなかったと、下記の記事から学びました。
----------山口二朗(北大教授、「世界九月号」の記事より)
マニフェストの語訳は、日本的誤解である。manifesut(積荷目標)の方であり、
◆本物のマニフェストは、manifesuto(政治的宣言)の方である。政党は建築事務所ではない。
政党にって何よりも重要なものは、どのような社会をつくりだすかという理念、思想である。
思想もなしに数値目標を掲げれば、政党は官僚可するだけである。---------------抜粋
ようするに、「政党の宣言、公約」という意味が本来の意味ということなんですね。
そのことの意味を踏まえて、私たちは思考する。今日本の作られていく空気を、
自分なりに立ち止って考えることが、基本として大切なことだと思いました。
マスメディアの動きを見抜く大事な視点を、やはり選挙民は学習したいですね。
こんな視点があることのどうぞ参考に。
(重複おゆるしください。)
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田中良紹 「国会探検」2009年08月01日
「マニフェスト選挙」を叫ぶインチキ
7月27日から31日まで各政党はそれぞれ選挙公約(マニフェスト)を発表し、メディアはその比較検討に力を入れた。しかしテレビキャスターが「ようやくマニフェスト選挙が根付いてきました」と、あたかも民主主義が前進したかのように言うのを聞くと、この国の国民は相も変わらぬ目くらましに遭って、またまた政治の本質から眼をそらされると思ってしまう。
私は以前から日本の政治構造を考えるとマニフェスト選挙は原理的に不可能であり、今言われている「マニフェスト選挙」はせいぜい「もどき」でしかないと言い続けてきた。にもかかわらず「もどき」が「もどき」を越えるようでは、この国の政治がまともな民主主義に近づく筈がない。
マニフェスト選挙の本場は英国である。アメリカにマニフェスト選挙はない。一度だけギングリッチという共和党下院議員が「アメリカとの契約」を掲げて共和党を大勝に導いた事がある。その勝利で自らも下院議長に就任した。それが英国の「マニフェスト選挙」を真似た珍しい例だが、ギングリッチの手法はその後国民の批判を浴びて本人は政界を引退し、その後マニフェスト選挙のようなものは行われていない。
アメリカにマニフェスト選挙がないのは、アメリカ国民が政策よりも候補者を重視するからである。自分たちの代表足りうる候補者かどうかを見極める事が民主主義にとって大事だと考えている。従って候補者は自分がどういう人間であるか、何をやろうとしているか、自分には政治家になる資質があるという事を有権者に説明する。しかし英国の選挙はまるで違う。国民が選ぶのは政党のマニフェストで候補者ではない。候補者は決して自分の名前を売り込まない。ひたすら戸別訪問で党の政策を説明して歩く。「候補者は豚でも良い」とジョークで言われるほど候補者は無視される。
だから英国では候補者は完全に政党に隷属する。英国の選挙が金のかからない理由は自分を売り込む必要がないからである。街宣車も要らないし、個人のポスターも要らない。そして大事な事は英国のマニフェストは日本のような政策の羅列ではない。まず国家の現状をどう認識しているかが語られる。そこから何が問題なのかが指摘され、どのような国造りを目指しているかを物語る。マニフェストは国民に向けた国造りの物語(ストーリー)なのである。
国民はその物語を聞いてどの政党に投票するかを決める。日本のメディアが一覧表を作って比較対照するような政策のオンパレードとは訳が違う。あの政策の羅列を見て投票すべき政党を判断できる人間が本当にいるだろうか。それを新聞・テレビが大騒ぎをして国民の口に無理矢理押し込もうとしている。政党同士は誹謗中傷の材料にする。そんなことで民主主義が前進するのだろうか。
善し悪しは別にして戦後日本の選挙はアメリカ型の「候補者を選ぶ選挙」である。候補者よりも政策を重視する選挙をやるべきだと言うのなら、まず公職選挙法を全面的に変更しなければならない。現在は禁止されている戸別訪問を認める代わりに街宣車での名前の連呼や街頭演説を禁止すべきである。政党のあり方も変更が必要だ。自民党や民主党のような個人主義の政党はマニフェスト選挙向きではない。日本共産党や公明党のように所属議員を完全に党に隷属させる政党でなければマニフェスト選挙にならない。議員は完全に党議拘束で縛られる。そうして本物のマニフェスト選挙に近づければ、民主主義を前進させる事が出来るかもしれない。しかしアメリカ型の民主主義に親しんできた国民が果たして英国型のマニフェスト選挙を受け入れるだろうか。私には疑問である。
そして日本の「マニフェストもどき」が問題なのは、政策の達成率を競い合わせようとしている事である。そんな事に何の価値があるのかが私には分からない。政治は生き物である。世界情勢は日々目まぐるしく変わる。そうした中で政治家に求められるのは変化への迅速な対応と柔軟性である。昨日作った政策にこだわるような頭では冷戦後の複雑な世界にとても対応できない。
例えばアメリカのオバマ大統領が大統領候補に手を挙げた時の唯一の「売り」と言える政策は「イラクからの米軍撤退」である。それが大統領になる可能性が出てくるとオバマのレトリックが変わった。「米軍撤退」が「戦闘部隊の撤退」になった。そして大統領に就任した現在、目標に掲げてはいるが優先順位は高くない。一説によると事実上米軍の指揮下に入る現地秘密部隊が育成されて撤退に備えているという。つまり撤退しても撤退しない。これが政治の現実である。選挙前の公約に縛られるより、現下の状況に的確に対応し、国民の声に耳を傾ける。それこそが権力者に求められることなのである
選挙で掲げた公約は政権を取ればより現実に近づける。それは民主主義政治普遍の法則と言っても良い。世界中がやっている。公約を縛ったりはしない方が良い。公約を守る事は大事だが縛るのは子供の論理だ。重要なのは政策ではない。政策を実現する政治家の力量である。最近の日本政治の最大の問題は政治家の力量を見ずに選んだ結果、権力者になりきれない政治家が次々現れた事ではないか。昨年も「政策の競い合い」と称する選挙のおかげで自民党は苦しむことになった。そして「政局よりも政策が大事」とバカなことを言う総理も現れた。政策よりも政局を操れる政治家の方が大事である。何故ならどんなに良い政策でも1票の違いで死んだり生きたりするからである。国民は早くその事に気付くべきだ。
ところが「マニフェスト」を金科玉条のように叫ぶ政治家たちがいる。最近も「三流テレビ芸人」でしかないくせにその自覚がない地方政治家がしきりに「マニフェスト」を「政治改革」のように叫んでいた。「マニフェスト選挙が政治改革」と言うまやかしは国民を惑わす罪深き宣伝である。些末な事に目を向けさせて、この国の本当の政治構造を見えなくする。
かつて新聞とテレビは「同根」の自民党と社会党をあたかも対立しているかのごとくに報道して国民の目を欺いた。社会党は選挙で絶対に過半数を超える候補者を擁立せず、従って政権交代を意識的に放棄した政党だが、それを野党と呼んで国民を錯覚させ、権力構造の中枢にいる官僚機構に自民党と社会党がぶら下がった仕組みを国民の目から覆い隠した。そして政権交代のない構造を民主主義であるかのように装った。
今またメディアは「マニフェスト選挙」を煽ることで、次の選挙の意味を明確にさせないようにしている。そもそも選挙の選択は難しいことではない。前の選挙から今日まで不満を感じないできた人は与党に投票すれば良い。逆に不満を感ずる者は野党に投票する。それだけの話である。勿論私はマニフェストを無くせと言っている訳ではない。選挙の判断材料の一つにはなるだろう。しかし「マニフェスト選挙」を異常に大きく見せることは政治の実像を歪ませる。国民の目くらましとなって民主主義をいびつなものにする可能性がある。怖い事だが民主主義の破壊者は常に民主主義の顔をしてやって来るのである
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